一路を読んで

久々のブログアップです
本は去年から何冊か読んでいたのですが、アップせずにいました
読み終わった所から忘れていっていますが、また読み直しながら
ブログを書いていこうと思います

今回アップするのは浅田次郎作「一路」

浅田次郎の時代小説はどれも面白く主人公の一生懸命さに共感を覚えます
この一路も読んでいる時は熱くなったり、展開が気になったりして
あっという間に読み終わりました
主人公の一路は父の急な死により引き継ぎのないまま参勤交代のすべてを
取り仕切る御供頭という役を仰せつかいます
ご先祖の残した一冊の行軍録を頼りに一路の失敗を狙う一味や旅の事件を乗り越えながら
御供頭としての役目を果たしていくといった内容です
今回は、陰謀や事件を書くよりかは、九州からはあまりなじみのない参勤交代で一路の
たどった宿場町メインにブログを書いていこうと思います
一路がたどった道は中山道(なかせんどう)といいます。中山道は江戸の日本橋から京都の三条大橋までの
六十九次を言います
一路が仕える殿様は蒔坂左京丈夫(まいさかさきょうのだいぶ)といい西美濃田部郡
(にしみのたなぶごおり)を領分としています。そこから江戸までの道を12日間で行く予定
にしていました
グーグルマップで西美濃田名部郡を検索すると...出てきませんでしたが
今の岐阜県関ケ原のあたりのようです。具体的場所は分かりませんが中山道の今須宿(いますじゅく)から
日本橋まで449km12日とすると時速1.56k、1日休んでも3.2k、19.2分/kとなります。
自分が会社まで15分/kくらいで歩いて行っているので行けそうな気がしますが、文中では
冬の道、悪路を渡るので大変そうに描かれていました
最初の宿は鵜沼宿(うぬまじゅく)という所です。日本橋から52番目の宿との事ですが
鵜沼宿の観光で検索しても聞いたことのある施設は見つけられませんでした。
鵜沼宿の方すみません。
二宿目は大湫宿(おおくてじゅく)です。中山道の47番目の宿場で日本橋から
359k鵜沼宿から39kの所です
この夜、御殿様は小姓に夜通し軍記物を聞かされます
参勤道中は行軍のため夜も眠ってはいけないからだそうです
実際は側仕えの者から御殿様の面目のためなので子守歌と考えて寝てもいいと言われたのですが
御殿様は面目なら自分と小姓以外いないので関係ないからやめてもらいたいと言います
しかし御供の方は絞り出すように言います。面目は人が見ているからではなく自分に恥じない
ためにやる事です、武士の面目は他人とは関係ありません。御殿様は言い返せず
その日から毎晩軍記物を聞くことになります
三宿目は妻籠宿(つまごじゅく)です。岐阜県から長野県に移ります。googllemapで近くを見てみますが
歴史のある街並みは他と同じで、ここなら僕でも知っているという有名スポットはなさそうでした
住所は南木曽町吾妻(みなみきそあずま)という所です。木曽と聞くと昔から木産業が有名で大名(徳川?三河?)が木材で貿易してそうな所というイメージがあります
四宿目は上松宿(あげまつじゅく)です。妻籠宿から上松宿までの道のりの困難さを描いています
大雨で倒れた木々が道を塞ぎ、道は崩れ土砂は谷底まで流れています
しかし迂回路を通れば日程が崩れるのでここでも行軍録に書かれているように
舗装した道を渡らず、玉砕してでも無理を押し通るの指示通り木曽路を乗り越えます
御殿様は田名部の宝では物ではない、人だと言って先祖からの装飾品を谷に捨てるように言いました
御供達は泣く泣く物を捨てて難所を乗り越えていきます。
読み返しながら感動しながら書いているのでなかなか、ブログも進みません
五宿目は奈良井宿(ならいじゅく)です。ここもgoogleで見ると江戸時代のような
民宿、建築様式となっています。コンビニは少し離れた所に1件あるといった所です
六宿目は下諏訪宿(しもすわしゅく)です。諏訪と聞くと誰も見てないから書きますが中学生の頃覚える
ためにゴロを合わせた吸って吸われて諏訪盆地というフレーズだけ思い出します。アホですね。
諏訪は確かに盆地で諏訪湖があり諏訪大社があります。諏訪湖には御神渡り(おみわたり)という
自然現象があり御渡り神事(みわたりしんじ)という占いがあります。これは湖上の水がすべて凍り
昼表面が温まり脆くなり、夜冷えた下部の氷が膨張、表面の氷に亀裂が走りその形によって
吉兆を占うというもので、無形民俗文化財に指定されています。テレビで見た事がありますが
長野県の諏訪湖の事だったとは知りませんでした
また御柱(おんばしら)祭という奇祭もあり柱に氏子がのって80mの坂を落とす祭りもあります
これもテレビで見たことがあり無形民俗文化財に指定されています
旅も中ほどまで来て悪だくみの首謀者が分かってきたり悪路も佳境に入ってきています
下諏訪宿を出立しようとしますが下諏訪の役人が荒れ模様でとても行ける状態ではないと
一向を止めます。途中和田峠という峠があり、それは中山道どころか五街道中髄一の難所であり
雨でも引き返すのに麓がこの状態なら峠は鬼の栖だといいます。御殿様の決断で結果旅立ちますが
道さき案内を務めていたお坊さんが雪の中座禅を組み死ぬことで行列を止めようとしたり
御供の方が力尽きて各所で雪だるまになっていたり、予備に連れてきた御殿様の馬が力尽きて
亡くなったりしながらも何とか峠を越えて行きました
七宿目は和田宿(わだしゅく)で、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十八番目の宿場です
江戸まで後199k。ネットでは和田宿再開発プロジェクトというのをやっていました。宿場町は
確かに歴史的で風光明美でもありますが、中山道だけでも宿場町が69個もあるので何か特徴的な物がないと
差別化は難しいのではと思いました。多くの自治体が抱える問題でもありそうですが。
八宿目は岩村田宿(いわむらだしゅく)です。岩村田の語源は岩群れの田で岩盤の多い
場所ということらしいですが、現代は木曽路、峠を抜けて大分、街らしくになっていました
九宿目は松井田宿(まついだしゅく)です。岩村田宿から金持ちの避暑地のイメージがある軽井沢を
抜けて群馬県に入ります。中山道六十九次のうち江戸から数えて16番目の宿場で江戸まで130kと
なっています。ここで御殿様が病気となり出発が一日遅れます。12日の予定が13日なりました
江戸への参勤は行軍なので遅れる事は許されないのですが、手紙を江戸へ出せば
認めらるとの話でした。
十宿目は深谷宿(ふかやじゅく)です。埼玉県にあり暑い街で有名な熊谷の近くです
十一宿目は桶川宿(おけがわじゅく)です。
十二宿目は板橋宿(いたばししゅく)江戸まで10k。お家騒動に端を発した騒動も、首謀者の
因果応報ともいえる結末により幕を引きました
陰謀者の何人かは亡くなりましたが身内の騒動、身内の決着という事でお咎めなしで
終わりました。御殿様は正当な評価がされて大名へ勧められましたが田名部を一所懸命守る事が
自分の領分とわきまえ断ります。一路も自分の人生を一所懸命生きるという事で終わりました
面白かったですが、暇に任せて全宿書いたのはやりすぎかもでした。次回作を乗せる時はもっと
まとめて書きたいと思います。