読書感想文

トイレで読む本で、最近読み終わったのは
藤武士の「読むだけですっきりわかる戦国史

そこまで歴史が好きな訳ではないんですが、読むだけですっきり
分かるなら読んでみようと思って読み始めましたが
人の名前や場所が全く覚えられず、覚えられないままその息子の何某が
親戚の何某と争って、何処どこで息絶えると説明されてもつながらないまま
終わってしまいました

辛うじて記憶に残ったのは大阪冬の陣が夏の陣の後に起きたことと豊臣家と
徳川家の最後の戦いだった事(しかも最後の章くらいに出ている)くらいでした

昔、猿でも分かるクラシックというのを読んだけど、あまり分からないまま読み終えて
今では全く思い出せません。猿以下の脳かよって思ってしまいます。覚えたい気持ちはあるんですが
好きでもないのに楽して覚えようとしても頭に入ってこないという事なのでしょうね

しかし、トイレという空間は好きでもない本を一冊読ませてしまう、不思議な空間です

せっかく読みきった本なので大阪夏の陣だけじゃもったいなく、いくつかトピックスをブログに残して
読んだ気になろうと思います。本を読みながらまとみてみます

読むだけ~戦国史応仁の乱から始まってます。1467年いしむなし応仁の乱でです
大きくいうと室町幕府8代将軍足利義政の弟足利義視と義政の妻の日野富子との子の
足利善尚(よしひさ)との将軍後継争い、管領細川勝元山名宗全との権力争い
その他家督争い、領土対立などがあって複雑な争いとなっています

足利義政が隠居したいのに子供がいなく弟の義視に将軍を譲ったのにその後義政と日野富子との間に
子供(義尚)ができての将軍跡継ぎ争い、弟に後を譲った時に子供が出来てもその子には後を継がせないよと
約束していたらしいですが、そういったものは我が身可愛さ、一族繁栄、領土拡大の前には吹き飛んでしまいます。約束事は私利私欲でない大きな信念に基づいて作られないと続けられないかもしれません
結果、11年の無駄な争いが起きてしまったのでした

川中島の戦いについて、武田信玄上杉謙信の戦いです1550年くらい
義の男、上杉謙信は、信濃守護を追い出し調略で村上義清から旧領を奪った武田信玄
許せない相手でした
都合5回の戦いがあったなかで、最も激しかったのが第4次川中島の戦いです
武田軍の山本勘助馬場信春は啄木鳥の戦法を提案します
女山に陣取る上杉軍を挑発、、攻撃し山から下りてきたところを武田軍本体が叩くというものです
木をつついて虫をおびき出し出て来たところをついばむキツツキと同じ戦法です
早朝、武田軍の半数が別動隊として編成され妻女山へ向かいました。一方本体は川中島
向かいおびき寄せられた本体を迎えうつ準備をしていました
対して上杉軍は武田軍の異変に気づきます
前日、武田軍の夕餉の支度のために焚かれている煙の数が尋常でなく増えている。動きの前触れだと
察知した上杉軍は夜間裏をかいて山を降りる事を決めます
下山した上杉軍は麓に武田の別動隊を足止めする部隊を残し、本体は千曲川を渡ります
勘助ら武田別動隊は山を登るがそこにはもう上杉軍はいない
謀られた思い慌てて山を降りるがそこには上杉軍の足止め部隊がいます。これを切り抜けないと
本体とは合流出来ません
朝になり霧がはれると武田軍は目の前に上杉軍本体がいて驚きます
しかし別動隊が戻ってくるまで持ちこたえれば勝機はあります、それは上杉軍も同じです
足止めしている間に決着をつけないと、退路を断たれてしまいます
この時間制限も戦いの激しさを招いた原因になりました
お互いの陣形に関しても誤った判断となり決め手にかけます。武田軍8000,上杉軍12000
数の上で武田軍が徐々に押され、後もう一息という所でしたが、武田別動隊が到着します
上杉軍は無念の退却をしました
謙信と信玄の一騎打ちがあったとされるのはこの時の事、実際は分からないがそれほど
激しい戦いだったようです
一説では上杉軍の死傷者は4600戦死率23%、武田軍戦死者3400,戦死率27%となるそうです
ここまで犠牲を出した戦いでしたが、この後、信玄の病死によって終局します。謙信も織田信長
直接対決する前に病死してしまいました。

1560年、信長27歳の時、数万の軍勢を有する今川義元をわずか数千人の奇襲で打ち破り
その名は全国に轟きました
尾張をまとめつつあった信長を見過ごす事が出来なくなり、早めに叩こうとしたが油断が
あったのでしょう、天候にも見放され今川義元は負けてしまいます
これを機に信長は版図拡大に目を向けていきます

金ヶ崎の退き口
1570年、豊臣秀吉の別小説にものっていて興味深かったのですが、織田信長の撤退戦です
信長は当面の敵、越前の朝倉義景を討つため家康軍と共に北陸へ向かいます
口実は信長が足利義昭の名で促した上洛に朝倉義景が従わなかった事
越前の手前には近江があり交通の要所なのですが、ここには浅井長政
います。浅井は信長の同盟者、というより信長の妹お市の旦那なので問題がないはずでした
信長が朝倉義景を目指し各支城を攻め落としていると中立を約束した義弟浅井長政
信長を裏切り、その背後を討つ準備をしているとききつけます
落とした支城も命あっての物種です。すぐに信長は単身で撤退しました
この撤退戦で名を馳せたのが豊臣秀吉です
撤退戦で一番危険なのは殿です。無事に生き残れる可能性は少ない、しかし
もし生き延びれたら信長、他の諸将に命という大きな貸しを作る事が出来ます
そして賭けに勝つことが出来ました。これが金ヶ崎の退き口です
この時、明智光秀徳川家康も殿軍にいたそうです
妖艶太閤記には浅井長政が裏切るように仕向けたのも、その戦で徳川家康
葬ろうとしたのも豊臣秀吉の策略と書いていました

関ケ原の戦い、1600年9月15日
東西の命運と徳川・豊臣家の行末、参加した諸将の運命と日本の将来をかけた天下分け目の
戦いが幕を開けました
スケールの大きな戦いで大まかにいえば各々8万前後の兵がいます
しかし西軍でまともに機能するのは宇喜多隊の一万五千人、三成隊の7千人
小西行長隊の4千人くらいのものでした
毛利・吉川の毛利勢は東軍に内通している事もあって様子見、勝手もわからないまま
ついてきた長宗我部盛親の6千は後方に陣をつかされ内通している長束正家隊に前を塞がれて
動けず。黒田長政を通じて内通の確約をして目付まで派遣されている小早川秀秋
布陣は圧倒的に有利でしたが知略と人望によりその日のうちに西軍は大敗してしまいました
石田光成は、あまり戦国時代に活躍していたイメージはありませんが西軍の将として
最後に輝かしく歴史に名を残しています

本を見ながら簡単にまとめてみました。たまに見返すことで記憶にも残る事でしょう
本を読み終わったらまたブログにアップする予定です
一応読んだ証拠になるでしょう。次は何をアップしようかな。